今私は小さな魚だけれど

ちょっぴり非日常な音楽を紹介するブログです

『読ませる技術―コラム・エッセイの王道』を読んで考えた余計なこと

『その他の外国語ー役に立たない語学のはなし』という本で紹介されていて、気になって読みました。

読ませる技術―コラム・エッセイの王道

読ませる技術―コラム・エッセイの王道

純粋なノウハウとしても面白いのですが、私がこの記事でメモするのはもっと個人的でしょうもないアイデアです。本の内容が気になる方は、こちらの記事を読んでください。

ichimokusan.info

この本にも「誰かが書いていることは書かなくていい」ってあったので、早速教えに従いました。

歌仙とDJは同じなのか!!!???

面白い文章について、スーパーマリオブラザースを喩えとして使い、「距離と段差が面白さの秘密」と説明しています。

もちろん歌仙というのは、ことばとイメージのしりとりですから、句と句の間にはなんらかのブリッジがかかっていなくてはならない。しかし、それより大事なのが変化と飛躍であって、ひとつの句とつぎの句が、同じ時間・空間(場面)に停滞することがあってはならない。そういっているんです。つまり、私が申し上げたスーパーマリオ理論と同じ考え方なんですね。

これってDJがやってることと似ていますよね。自分がDJしていたり、他の人のを聞いているときに「たしかに同じジャンルできれいに繋がっているけど、なんか面白みないなあ」って感じていたときの原因が分かった気がします。

歌仙』に収録されている「新酒の巻」を例に挙げられています。以下に一部を引用します。

鳥ぐるみ住替る世と便来て 安東
引くに引かれぬ邯鄲の足  石川

モンローの傳記下譯五萬圓 丸谷
どさりと落ちる軒の殘雪  大岡

この唐突な「モンローの…」という句について説明されています。

この巻は、七句目で丸山才一が唐突に出した「モンローの……」の一句で、たいへん有名になりました。まさに、スーパーマリオもびっくりの、すごいジャンプですよね。距離もあるし高さもある。

解説もあります。ちょっと引用が長すぎる気もしますが。

まず石川淳が六句目の七七で「邯鄲(かんたん)」を出した。カンタンは秋に鳴く虫の一種ですが、このことばは、ご存じのように、「邯鄲の歩み」とか「邯鄲の夢」とか、いろいろの故事や言い伝えにリンクしています。また、「邯鄲師」といえば、これは泥棒、いわゆる枕探しのことでしょう。

その邯鄲の足が「引くに引かれぬ」とあるのを受けて、丸山才一は、翻訳家のココロで、「マリリン・モンローの伝記の下訳を頼まれたんだけど、ギャラがたったの五万円。とはいえ、いまさら手を引くわけにもいかないし……」とボヤいてみせた。いきなりとっぱずれた話にもっていったようですが、じつはそうではない。この一句のなかに、「邯鄲の歩み」(モンロー・ウォーク?)から「邯鄲の夢」、そして「邯鄲師」まで、話をぜんぶイメージとして押さえ込んでいるのではないか。私にはそんな気もします。もしかすると、やってみたらカンタンじゃなかった、というだじゃれだって入っているのかもしれません。

いやあ、さすがだと思います。たいしたものですね。「いうんじゃないかと思った」、といわれるのを承知でいいますが、まさにカンタンにあたいする腕前というほかない。

そして、その後の大岡信がまたすごいと思いませんか。ふつう、前にこんな意表をつく句を出されたら受けようがないでしょう。ところが、みごとにこれを受けてみせています。すなわち、モンローと来たからには、これは春。白い肌のようになめらかな残雪が、まさに触れなば落ちんという感じで、軒先であやうい曲線を描いていた。それが春の日に溶けて、いかにもボリュームありげにどさりと落ちてくる。しかし、そんなダブルイメージの仕掛けはとりあえずおくびにも出しません。あくまでさりげない春の点景として話を前に進めているんですね。

ただ、「具体的にこうすればいい」というようなアドバイスまではやはり書かれていません。ただ、松尾芭蕉の話はもう少し追ってみても面白そうだと思いました。

あの芭蕉という人は、このゲームの、いわばプロ登録した名プレイヤーでした。あの『猿蓑』をはじめ、各地でやったライブの記録がたくさんあります。名人としていろいろ金言も残していますが、そのなかでよく知られているのが、つぎの教えです。芭蕉いわく、歌仙というのは、つねに前へ前へと進むものであって、けっして足踏みしたり後戻りしてはならない。つまり、モットーは「ネバー・ルッキングバック」なんです。

これは具体的にはどんな言葉で遺しているんでしょうか?「月日は百代の過客にして〜」という有名な文章をこのニュアンスで捉えるのも無理ではなさそうですが…。

また、この連句について書かれた記事もいくつか見つかりました。メモとして残しておきます。

図書館ブログ:国際基督教大学図書館

ひとつだけ。歌仙における伝説の一句、「モンローの傳記下譯五萬圓」は、石川淳の発句「鳴る音にまづこころ澄む新酒かな」に始まる「新酒の巻」で誕生しました。岩波書店のPR誌「図書」のある号が、その全貌を明らかにしています。のち、『歌仙』(青土社)に収録されたはず。

丸谷才一死去 - jun-jun1965の日記

私が大学院へ入つた時に行われた八王子セミナーハウスでの合宿には、芳賀先生の縁で大岡信が講演に来ていたのだが、丸谷才一らと連句をした時に丸谷が「モンローの伝記下訳五萬円」とやったたのでみな呆れたが、大岡がそのあとへ「どさりと落ちる軒の残雪」とつけた、と言うので、みなおおーと感心したのだが、これはどの本に載っているのか、確認を忘れていた。

読書メモ抄 - 黌門客

そういえば。丸谷氏の付句「モンローの傳記下譯五萬圓」に、大岡信が「どさりと落ちる軒の殘雪」と付けた話について、小谷野先生がブログで書いておられたが、これは先生の仰るとおり、やはり石川淳丸谷才一大岡信・安東次男『歌仙』(青土社)に出て来る。初出は「図書」(1974.3)。
次第を述べておくと、「新酒の巻」第六の句(雑)が「引くに引かれぬ邯鄲の足」(石川淳)で、これに対して丸谷氏は困ったあげく、「だれかの伝記にしようと思って考えて、(略)ふっとモンローが現れ」、「モンロー以外は全部だめだ」と思ったのだそうだ(p.53)。しかも、「邯鄲の足」からの聯想で、「モンロー・ウォーク」が「意識の底に」あったことを認めているのだが、そのきっかけとなった石川の発言が誘導訊問めいているから、果してどこまで本気なのかわからない。

ノベルゲームの説明的な台詞について

「カギ括弧(会話文)を有効に使おう」という話もあります。この話自体も面白いのですが、私が気になったのは、「そういえばカギ括弧だけで成り立っている文学がある。トイレのスケベな落書きだ」という話です。

三十枚の血湧き肉躍る「小説」を会話だけで書くというのは、たいへんな筆力だと思いますね(笑)。もちろん相当無理は出ます。地の文を使わないということは、状況説明も内心の思いも、すべて会話で処理しなくてはならないということなんですから。「フフフ、いまから先生がその白線のついた紺のセーラー服をこの毛むくじゃらの手で脱がせてやるからな。さあおとなしくするんだ」「先生やめてください。先生、私の白いレースのついたピンクのパンツだけは許してください。先生、お願いです」(笑)。

たしかにアダルトゲームでも、妙に説明的な台詞が度々あるので気になっていました。あれも「会話主体にならざるを得ないUIでどう表現するか」に苦心した跡なんでしょうね。

解決したぞ!(本人はもう忘れてるでしょうがw)また、「かわいい声でいやらしい台詞を言っているのに興奮する」という実用的(?)な意味もあるのかもしれません。

文章を書くのはプログラミングと同じ

文章を書くということは、基本的にはコンピュータのプログラムを書くのと同じ行為なんです。コンピュータのプログラムは人工言語で書くのに対して、こちらは自然言語。それだけのちがいです。

読者の目から読み込ませたプログラムが、脳を作動させて、設計通りのイメージや感情を脳内に発生させることができるか。もしうまくできれば、プログラムは正しく書けているということになりますね。

ハッカーになろう」に次のことが書かれていることを思い出しました。

英語が母語だからといって、ハッカーとしてやっていけるだけの言語能力を持つという保証はありません。作文がボロボロで、文法まちがいだらけで、スペルミスだらけなら、多くのハッカー(わたしを含め)はその人を無視しがちです。書き方がへぼいからといって、思考がヘボいとは限りませんが、一般にその相関はかなり高いことがわかっています――そしてハッカーたちはヘボい思考なんかに用はありません。まともな文が書けないなら、書けるように勉強しましょう。