今私は小さな魚だけれど

ちょっぴり非日常な音楽を紹介するブログです

「電波系」を読む その2

1996年の『電波系』に「電波ソング」という記載があった」から、村崎百郎さんの電波系・鬼畜系と呼ばれた文章に惹かれています。ただ、「「電波系」を読む その1」ではいい面を書きすぎた気がするので、「電波系・鬼畜系」のスタンスの後世への功罪の面を調べてみます。

ファンの間の〈見下ろすボックス席 〉のような態度

imidas.jp

あれから、20年以上。

気がつけば鬼畜ブームは遠い過去になり、そうして2000年代、この国にはヘイトデモが登場した。

このデモを初めて見た時、香山さんは大きな衝撃を受けたという。〈ポストモダン文化やサブカルの延長線上にあるものに見えたから〉(前掲「常識を疑え!」) だ。それはどういうものか。著書『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー――根本敬論』(太田出版、2019年)で香山さんは以下のように書いている。

〈重さや暗さや熱さ、真剣さなどが極端に忌避〉され、〈過激なエログラビアも、天皇も、フランスの現代思想も〉すべて同じステージに上げられ、自分たちはそれを〈見下ろすボックス席 〉のような場所で批評する、という態度。かつて「文脈」や「行間を読む」という高度さとセットで、どこか文化資本が高い人たちのオモチャだったその手のものは、1990年代鬼畜ブームを経て一般化する過程で劣化し(私はここで消費した層)、「ひどいことやったモン勝ち、鬼畜であればあるほど偉い」というノリだけを残して21世紀の路上で醜悪に花開いた。

本来は「貴族的な楽しみだった」みたいなことはこちらの記事にも書かれています。

shinsho.kobunsha.com

『危ない1号』や『QJ』だけではありません。「鬼畜系」は村崎百郎のおかげで「電波系」とも呼ばれていましたが、「悪趣味系」という呼称も非常によく使われていました(これらはほぼ同一の文脈と人脈を意味しています)。

ハイカルチャーとの関わりなども面白い。

私も『モンド・ミュージック』は愛読しましたが、実を言えば微妙な違和感も抱いていました。モンドという新奇な言葉による価値づけに、表面的には当時まさに現在進行形だったローファイや「悪趣味」と同一平面上にあるようでいて、むしろ時間的にも経済的にも(つまり文化資本的に)余裕のあるセンス・エリートの趣味性のようなものを強く感じてしまったからだと思います。必然的に過去の知られざる名盤/迷盤の発掘という側面が際立つので、私が伴走していた(つもりの)、まだロクに価値づけをされていない、何がどうなるのかわからない「今起こっていること」とはまったく異なった、優雅で懐古的な、いわば貴族的な愉しみのようにさえ思えてしまいました(あくまでも当時の話であって、もちろん今はそこまで尖った意識は持っていません)。そもそも「悪趣味」というキーワードには、どこかで「良い趣味」を前提としているところがあるわけで、内心では「悪趣味」のブーム自体にも少なからず疑問を持っていました。モンドというカテゴライズには明らかに両義的なところがあって、一見こちら側(?)のようだが、むしろ同じ時期にやはり音楽ファンの間で大人気だった橋本徹によるフリーペーパー/ディスクガイド『Suburbia Suite』のお洒落さ(サバービアは「渋谷系」の参照系=ネタ元のひとつでした)と相通ずるものだと感じていました。

shinsho.kobunsha.com

孤独のグルメ」のおかしさの評価

こちらのブログにあるような「孤独のグルメ」が評価されるのも90年代サブカルのこういう視点があったんじゃないかって話があって面白いです。

urbanlife.tokyo

今ドラマの新シーズンが好評な『孤独のグルメ』も、もとは90年代サブカル的な評価から浮上してきた作品です。同作が当初連載されていた月刊誌『PANjA』(扶桑社)は、決して売れ行きのよかった雑誌ではなく、単行本も日の目を見ませんでした。それが90年代末になり、評価されるようになったのです。

当初は、中年男性がひとりでご飯を食べて「失敗した~」「食べ過ぎた~」という揚げ句にアームロック……と、ある意味奇妙な人物像が斜め目線から評価されていました。それが今ではドラマになり、ひとりでご飯を食べることの美学を描いた作品として捉えられています。人々の価値観は絶えず変わるものです。

孤独のグルメの実写化はなぜ成功したのか」という記事では、「ネットで火が付いたのは、2006年に書かれた 孤独のグルメ:a Black Leaf (BLACK徒然草) が一つのきっかけだと思います。」を紹介されています。

ablackleaf.com

■「このワザとらしいメロン味!」

練馬区石神井公園にて。公園内にあったチェ●オの自販機でメロンソーダを購入し、飲んだ後の主人公のセリフです。文句言うならはじめっから買わなきゃいいのに、と思うのは素人です。表面的には文句を言いつつ、実は幼き日の郷愁に浸る・・・いわゆるひとつの照れ隠し。中年オヤジは比較的幼き日の郷愁にすごく弱い傾向にあります。体に悪いと分かっていても懐かしさが体を突き動かし欲求を止めることができない、中年オヤジとはそういう悲しい生き物なのです。

たしかに、当時友達から孤独のグルメを勧められたとき、おじさんが地味に食事するだけのマンガでどう楽しめばいいか分からなかったんですが、「こういう楽しみ方もあるのか」って思った覚えがあります。たしかにこのちょっと茶化しつつ、作者の意図するところと関係ないところで楽しむようなノリは、90年代サブカル的な評価の視点も含まれている気がします。

これは割と素直に、石子順造さんのキッチュ論とかと関連づけて考えられそうですね。

sakana38.hatenablog.com