今私は小さな魚だけれど

ちょっぴり非日常な音楽を紹介するブログです

週末電波音楽夜会セットリスト解説

hearthis.at

私は電波ソングが好きなのですが、その文化には「他人のズレている部分を外から批評して楽しむが、自分自身の考えは出さない」という矛盾があると思います。そこで、実は自分たちと変なものの間には明確な壁はなく融通無碍であり、その中でも健全な方向に向かえる信念とはなにか考えようとして提出したのがこのセットリストです。

これは一見妄言を言っている脈絡の無い選曲のように見えるのですが、(河合隼雄さんの言う)ユングの個性化の過程をモチーフの一つとしています。河合隼雄さんのユングの話は一見実証できなくて胡散臭くも感じるんですが、臨床での現場感覚みたいなのもセットで感じて芯を捉えてる部分もある気がするので非常に面白いです。

もう一つ、ある程度本気で主張しないと真実味が無い(自分も真面目にやらないと使っている曲の人たちに失礼だ)のと、「詠唱 日本国憲法」を流したいと思って「戦争と平和」みたいなものもモチーフとなっています。

多分、言葉を尽くせば尽くすほど頭のおかしい人に見えそうですが、誰かのなにかの役に立つこともあるだろうと思って書きます。

ユング心理学と仏教における自己実現の過程

河合隼雄さんは、仏教(禅宗)の十牛図と、ユングの「賢者の薔薇園」を比較して、西洋と東洋の「自己実現」の過程を比較して日本と西洋の文化の対比を説明しています。

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その中で、次のように日本側の十牛図では、女性が明示的に描かれていないと指摘されてます。

それにしても、西洋の図で重視される男女の結合を念頭において、放牛図を見ると、そこに女性が登場していないことに注目せざるを得ません。これは重要なことです。私は子どものときから昔話が好きでよく読んできました。そのとき、たとえばグリムの昔話では結婚によるハッピーエンドの話が多いのに、日本のそれでは大変少ないこと――悲劇に終るのも多い――に気がついて、子ども心にも不思議に思っていました。

十牛図(放牛図)の中では女性が明示的に現れないことも指摘して、「日本の新しい意識変革に女性の担う役割は大きい」と言って締めています。そこで連想したのが次の本の「(阿弥陀仏の慈悲になぞらえて)地にある女性的な役割に甘えているんじゃないか」という内容を思い出しました。

このDJの後に「男女でセックスして子どもが生まれたことを表現しているんでしょ」と指摘して頂いた方はいたのですが、実際には「賢者の薔薇園」を下敷きにして、次のような自己実現のストーリー過程を描いたつもりでした。

  • 男と女が向かい合う
  • 結合
  • 転生
  • 新しい自分

また、電波ソングも出自からして「男性から見た女性」の側面が大きいとは思います。普段からコンセプトとかストーリーを意識したDJをすることはあるのですが、もう少し明示的に女性からの視点を入れてやるとどうなるか実験してみたつもりです。

ただ、やや男女の役割を単純化している点と、「ハッピーバースデー、お兄ちゃん」から「お兄ちゃんはおしまい」で締めたのは、まひろちゃんは男性性ではなくなっているのでこれが自己実現といって良かったのか自身が持てません。ただ変成男子の逆をいく意図はありました。

選曲の意図

男と女が向かい合う

最初は「星の流れに」にしようと思っていました。ただちょっとこの思いを自分が扱うのは無理だなと思ってやめました。

作詞した清水は、第二次世界大戦終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ[1]。もと従軍看護婦だったその女性は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「娼婦」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した[要出典]。

代わりに連続テレビ小説で使われていた「別れのブルース」にしました。特攻隊員を見送る歌手が歌って舞台裏で泣いてたシーンが印象に残っています。

columbia.jp

Pants Questは「プリキュアの服を着た男性歌手が勇壮な歌を歌う」というのが合ってます。特攻というワードが重なっていて、明示的に戦争を描くのは私にもイベントの趣旨的にも無理なので暗示にとどめています。

Radio Gagaは下火になったRadio(電波)の懐かしさを歌っている曲なので電波ソングのイベントで流してみたかった曲です(たださすがに伝わりづらかったかも)。「someone still love you」で、愛の救いの可能性を示唆していて、これは「別れのブルース」にあったような慈悲の視線とも共通しているなとおもってなんかしっくり来ました。ここからlove and peaceのテーマにつなげたつもりです。

「金玉summer of love」と「Imagine」は、サマーオブラブとかヒッピー文化で反戦と愛を歌ってます。でも、なんか私はジョンレノンは浮世離れしてしまったように感じていて、「世界は一つ」とか「宗教はない」って考え方にも、うまく言えませんがちょっと問題あるんじゃないかと感じてしまいます(これは"日本における"自己実現は違うんじゃないかローカルなものも大事にすべきだという自分の考え方が出ている気がします)。メイドさんラブアンドピースでセックスのテーマに入って茶化しています。メイドさんラブアンドピースの前にImagineを流したのは、VJがいないイベントだったので元ネタから電波ソングという流れでわかりやすくする意図もありました。

結合

「トドを殺すな」「新町」はフォークソングで「俺たちみんな(役に立たない)トドだぜ!(だから撃つな)」と、「俺たちはセックスの豚なんだよ」っていうことで繋がっています。ラブアンドピースの理想と対比して、我々のような凡夫は自分自身もコントロールできないし、もしかしたらコントロールしようとするのも間違ってるんじゃないかという考えを提示したつもりです。「Imagine」→「メイドさんラブアンドピース」と、「トドを殺すな」→「新町」で、ある程度そのジャンルで一般的な曲と似たとんでもない曲で、試行錯誤しながらジグザグ進んでいく感じを出したいという意図もありました。

セックスフレンドビートパンクは、そういう「愛を語るより今抱いてほしい」という声は一理あるなという意図です。頭でっかちになった我々自身に対する批判でもあります。戦争で南の島に取り残された孤独を考えると、オリオン座の下でセックスしたいと考えるのは馬鹿にできないなという新しい解釈も提示したつもりなのですが、さすがにもう少し工夫しないと分からないと思ってます。

(コントロールできない自分)

「そうだ!We're ALIVE」は、ちょうどファンクっぽい(?)戦後のコミックソングにつなげるための中間地点です。「努力未来a beautiful star」は戦争が終わった喜びと、kick back に引用された時のデンジの殺伐とした感情が表されてます。ここから戦後に時代が移るつもりでした。でもサマーオブラブが前にあるやんって指摘はごもっともですw

ここからはコミックソングで、酒とエロで「コントロールできない自分」のモチーフを引きずってます。またここでも「元ネタ」→「パロディ」の流れは引きずっていて、一直線でなく悩みながら前に進んでいる過程を描いています。やめられないやめられないはその「コントロールできない自分」を開き直って、「死んでも化けても生まれ変わっても」でユングの個性化の次の段階(死)に進みます。死は自分には分からないのでこのDJ で描かれていません。これは源氏物語の雲隠をモチーフにしています(というのは嘘です)。

転生

異世界管理局創造課」は転生のテーマを示しつつ、何かと仕事の忙しい現代社会に視点を移してます。最後の「ご自身の不遇を対価に」まで入れたほうがしっくり来たんですが、これは何なのか自分でもわかっていません。悩んでジグザグして成長していると思っていること自体も、もしかすると自分が自分を悩ませているだけで、本当は違うんじゃないかという不安なのかもしれません。

新しい自分

新しい自分へのテーマが現れます。「いないいないばあ」と「HAPPY BIRTHDAY」です。「いないいないばあ」の「何が見えたの どんなふうなの」はここまでの話のわけのわからなさとちょうど良いかなと。

「ひめごと*クライシスターズ」は、ユングのいう個性化の最終段階の「男性と女性が一体になった高次の自分」を示してます。つまり、まひろちゃんはこれを象徴しています。また、現代の日常に回帰してくるという意味合いもあった気がします。

でもまひろちゃんは男性性を無くしてるので、これでよかったのか自身は持てません。「サークルオブライフ」はなんか時間余ったし、転生のテーマにもあってるので流しましたw

河合隼雄の本にあった、男性原理の「ものごとを分けて考える」「競争する」みたいなのから、理想を経由つつ、コントロールできなさも受け入れて生まれ変わる(ことで自己実現する)というテーマもある気がします。ただ今だと単純に父性とか母性って割り切って言うのも違うかもしれません。

また、「HAPPY BIRTHDAY」はみろさんの誕生日イベントで流れていて、まきいづみさんの「ハッピーバースディ、おにいちゃん♪ また1つ大人になって、もしも・・・」は大阪のイベントふざけて流していたトラックです。ここでは主催者のにんぢんさんの誕生日もちゃんと祝っています。

まとめ(てない)

これは鋭い意見です。準備期間が無かったこともあって、「金玉summer of love」や「前文」のような大阪旅行で知った曲が多く入ってしまったからだと思います。

河合隼雄さんの『ユング心理学と仏教』の別の章で次のようなことが言われていて、「日本のクライアントには"原罪"の意識は無いが"原悲"というべきものがあるんじゃないか」みたいなことが語られていました。日本一般のことは分からないですが、自分はそうかもしれません。

それは、先の箱庭のことを思い出していただくと類似性がわかると思いますが、この外側に置かれている楽しい世界は、この苦しさとかなしさに満ちている中心によって支えられているのだ、と思ったのです。そして、中心に一人の人しか置かれていないのは、ここは主客分離以前の世界なので、一人で表しているのであり、日常のレベルに近づくと分離が行われ、治療者とクライアントの二人の像として表されていると思いました。

(中略)

治療者の本来の役割は、この中心に位置を占めることではないでしょうか。クライアントと分離し難いほどの深いレベルにおける、苦しみとかなしみのなかに身を置いていると、自然に日常がひらけてきて、そこではもちろん楽しく愉快な経験も沢山できるのです。

半分は自分でも何言ってるのかわかりませんが、今の自分にできることはやったと思います。ただもう少しシンプルにやるべきだったかもしれません。