フェミニズムの文脈で次のようなツイートをしている方を見かけて、面白いなと思いました。「布団の中から蜂起せよ: アナーカ・フェミニズムのための断章」の著者の方なんですね。
椎名林檎の思想は根本的に私とは相容れないけれど、あの人がクィアから一定好かれてるのは、ずっと刹那の話をしているからではないかなと思う 《今》にしか希望が持てない、という消極的な光 「季節を使い捨て」るみたいに生きるほかないことも、あの人が歌うとほのかに明るいから
— 高島鈴🏴 (@mjqag) 2025年2月22日
おそらくこちらのニュースを踏まえたものです。
私にとって椎名林檎は「従兄弟の姉さんが好きでかっこいいと思っていたアーティスト」で、是非までは論じません(というか論じられません)が、「椎名林檎しか代弁してくれないある種の刹那性」とか、なぜか感じる祝祭感(?)はたしかにクィア的な魅力が通じてる気はします。違う文脈ですが、私自身も最近そういう表現の作り方に興味があったのでたしかに面白い。
ただ一方で、そしてそういう文脈を生きている人からすると、旭日旗以前に、そもそも国がそういうジェンダーの問題をないがしろにしてきた歴史があって、そもそもそういう表現ってかっこいいのか?という感覚もあるんじゃないかと思います。(※これもかなり解像度が低い表現だと思います)
『椎名林檎論』第12章では、「林檎博の演劇性」という項の前後で、椎名林檎のライブ・パフォーマンスには「演劇性」と「パロディ」の要素が特徴であることが指摘されている。
そして、それは「キャンプ(camp)」という概念とも捉えられる、と筆者は述べる。
また、直接的にクィアについて述べてる章もあるみたいです。
その中で、目次を見た時点で気になっていた「クィアな林檎」という項を読んでいたとき、電流が走ったような感じがした。
「第4章 音楽を魅せる」という章の中のこの部分は、椎名林檎のセンセーショナルなイメージを世間一般に印象づけた『本能』のMVの分析から始まる。
赤い口紅をひき、ミニ丈のナース服を着た椎名林檎がガラスを叩き割る映像。 私にとって、この曲とヴィジュアルに抱いてきたイメージは今まで大きく二つだった。
おお、たしかにこれはかっこよかったw
以前、松岡正剛さんが次のようなトゥーマッチな表現の魅力を語っていて、その中の一例に椎名林檎が出ていたことあります。
――本書を読んで、日本は海外の文化をそのまま取り入れるのではなく、“ジャパンフィルター”を通すことによって独自性を獲得しているのだと感じました。一方で、日本で連綿と続いてきた「バサラ」や「かぶき者」のような過激な表現は昨今、コンプライアンスを重視するあまりに生まれにくくなっていると指摘しています。
松岡:差別用語を使わない、人を叱らない、自制/自粛をしようといった風潮が高まり、過剰さが避けられるにつれて、表現が抑圧されている部分はあると思います。歌舞伎も枯山水も茶の湯も、もともとは非常に過激なことをしてきました。能や茶の湯や枯山水などは引き算が過激で、舞台の上にほとんど何もないような表現を追求していますし、逆に歌舞伎では派手な格好で大立ち回りをしたりする。和事と荒事、あるいは和魂と荒魂といった観念は日本文化にとって大事な要素ですが、昨今はあらゆるものが抑えられて、トゥーマッチな表現を追求する力がなくなってきている。悪党やかぶき者、あるいは風流(ふりゅう)と呼ばれた美意識は本来、どのようなものだったのか。それを改めて捉え直すことが、日本文化を発展させるために必要だと思います。
椎名林檎さんもこの一例として挙がってますね。
ーー現在の日本のポップミュージックを、歴史的な背景と接続して考えることもできるわけですね。
松岡:「シャ乱Q」なんて、カタカナの「シャ」と漢字の「乱」とアルファベットの「Q」を一緒にしていて、まさに万葉仮名のような言葉の使い方です。紀貫之の『土佐日記』などは、それまで貴族は漢字を使う習わしだったのが、あえて女性のふりをして仮名で書かれています。僕らが若い頃は、イギー・ポップなんかが上半身裸でメイクをしてパフォーマンスをしていたけれど、そういう文脈とは別に、日本には独自の“ジャパンフィルター”というべき文化の解釈の仕方が、歴史的に見てもあるのではないか。今回の『日本文化の核心』では、日本の歴史や宗教観に触れながらも、例として椎名林檎など現代のポップアーティストの名前を挙げて、そのことをわかりやすく解説しようと試みています。
私も松岡さんの挙げているこうしたアーティストは好きで、松岡さん自身についても記事から哲学とか仏教とかの紹介は好きなんですが、(少なくとも一部の)フェミニズムの言う「ダサくて日常的」な部分が弱い気はしてて、たしかにそこは相性悪い気がします。
あと、こういう話をしていたら、ChatGPTに石子順造の『キッチュ論』っていうのも教えてもらいました。
あと、私の場合は「日常的なものから評価し始めたい」っていう傾向はあって、やっぱり人文系の本にハマった(詳しくはないw)きっかけが鶴見俊輔さんだったことの影響は多少ある気がします。でも一方で、「トゥーマッチな表現」のアーティストが「ダサくて日常的なこと」を歌ってるのも見たくない気持ちもあります…w
私も曲りなりにDJやってる身として、何かしら「祝祭」的なハレの感覚は出していきたい(そこは椎名林檎さんは素晴らしい)だけど、一方で日常的なしょうもないこと「例えば小さい頃好きだった怪獣映画」みたいな感覚も出したいので、私にとってはなにか別の方法が必要そうだってことだけは言える気がしました。


