今私は小さな魚だけれど

ちょっぴり非日常な音楽を紹介するブログです

ソンタグの「キャンプ」概念と電波系と電波ソング

おせち倶楽部のイベントで出したインタビューの中で、ゆりあさんからこういう話がありました。

電波ソングは「ケーキって言えばこれが一番ぶち上がるケーキや!」って絶対食べられないやろみたいな真っピンクなシリコンのドカーンみたいなのが来て「これが恋愛で〜す」って言ってる感じがして最高です(笑)

私にはこういう「人工物や過度に強調されているものを愛でる」みたいな感覚はあまり無くて面白いなと思っています。以前おだやかおせち倶楽部のDJ感想記事を書いていて、「例外(変なもの)を愛する」という点は2人とも共通してると思うのですが、そのニュアンスは私自身の自己紹介になってしまっていたように思います。というのも私自身には「人工物 vs 自然」という対比は薄くて、おそらく「人工物も含めて自然として愛好する」っていう日本人好みの仏性的な考え方が出ているような気がするからです。

そういうこともあって、都築響一さんの大道芸術館に行ったことも影響して、そういうしたもの、例えば日常にあふれた低俗なもの(低俗だと思われているもの)を愛好するスタンスについて調べて、その微妙なニュアンスの違いを整理したいと思ってます。石子順造さんのキッチュ論、キャンプ、例えば電波系などなど。鶴見俊輔さんの限界芸術論は元々好きでした(ただ当時の流行などの話も多くてあまりついていけなかったんですが…)。そうすることで、一番安直な考えではDJの手数が増えるかなと思ってます。

その中で最近、スーザン・ソンタグの1964年の「《キャンプ》についてのノート」について調べています。

ソンタグ自身の本は惹かれるものがあったものの難しすぎて、特に新書の内容が面白いです。

shinsho-plus.shueisha.co.jp

波戸岡 この『スーザン・ソンタグ』では、アメリカの辞書から「あまりにも人工的だったり、不自然だったり、あるいは時代遅れだったりするために、おもしろい(アミュージング)とされてしまう事柄」(Merriam-Webster)という一般的な定義を紹介したうえで、TikTokのダンス動画を例に挙げました。コスプレしたり、自分の顔を加工して踊ったりする動画ですね。それを見て楽しむ時の作法がキャンプ。既存の価値判断で評価するのではなくただ楽しむ。キャンプってあの作法なんだと思うんです。TikTokを見て楽しむ時って、それこそいじってはいけないじゃないですか。

都甲 いじっちゃいけないの? あれ(笑)。

波戸岡 そうなんですよ。受け入れるっていうことと、それを伝播させていく。それがキャンプなんです。

1960年代当時生まれた感覚が、今ではインターネット上で一般的になっている(なりすぎている)と言えるのかもしれません。次はソンタグの「《キャンプ》についてのノート」からの引用です。

私自身は自己啓発という目標と、自らの感覚のなかにある鋭い葛藤のもたらす刺戟とを、裏切りの理由としたい。私はキャンプに強く惹かれ、またそれに劣らぬほど強く反撥を感じている。だからこそ、私はそれについて語りたいと思うのであり、また語ることができるのだ。なぜならば、ある感覚に心からとけこんでいるようなひとには、それを分析することなどできないからだ。そういう人には、意図はどうであれ、その感覚を見せびらかすことしかできない。ある感覚に名をつけ、その輪郭を描いたり歴史を辿ったりするには、反撥によって制約された深い共感が必要なのである。

この感覚は面白いなと思ってます。例えばインターネットの低俗な文化で、今となっては逆にこちらが主流になっている気がします。ソンタグ自身はカウンタカルチャー的な意味でのかっこよさがある人だったらしくて、さっきの対談の後編ではこういうことを言っています。多分、ソンタグ自身には現実を見据えた部分と、キャンプ的・非政治的な部分の両面があって、だからこそ前者の面から論じる意義があったって意味なんだと思ってます。

都甲 そうとしか言えないくらい滑った(笑)。『写真論』はすごくいい本なんですよ。私はダイアン・アーバスが大好きで、アートとしての写真はこうだ、みたいな話を学生にするわけ。それからディスカッションしたんですが、「先生、写真がアートってめっちゃわかります」「おー、そうか」「先生は知らないかもしれないですけど、撮った写真をとっても個性的にしてくれるアプリがあって、どんどん自分の世界を作り込んでいけるんです」というやりとりがあって、「おやおや」と。

 その時わかったんですよ。今はアートっていう概念がないんです。アートが偉いとか、ある種の狂気とかオルタナティブみたいのをかっこいいみたいな感性が、若者の中にほぼない。ある学生もたまにいるんだけど、98%ぐらいはない。そういう学生たちに、スーザン・ソンタグは面白いし、かっこいいって、半年間言い続けるのは辛かった。もう毎週、脂汗流して授業をやっていました(笑)。

 ソンタグの魅力をどうやって今の若者たちに伝えていったらいいんでしょうか。

波戸岡 わかります。私もこの本を書き始めた当初は、ソンタグのかっこいい言葉を並べて、波乱万丈な人生を書けばすーっと伝わるんじゃない? っていう甘い目論見があったんです。でも、おっしゃるとおりで、自分が「ソンタグはすごい」って言えば言うほど「滑る」。その感覚、よくわかるんです。

 なので、今回の作戦というか、書き方としては「ソンタグはかっこ悪い」。だけど「あえてかっこ悪いやつをかっこいいと言ってみよう」。

 これは、ソンタグ自身がキャンプについてやった方法論なんです。「キャンプはかっこ悪い」。だけど「あえてかっこ悪いものをかっこいいというのがかっこいいんだ」と。

 ソンタグは時代遅れでかっこ悪くなった。でも、それを今、もう1回読むことはかっこいいことだよっていうプレゼンをやってみたんですよ。

それでは電波系や電波ソングなどをソンタグの面から論じたものが無いか探したら、一件だけ見つけました!この冊子って神楽坂のコ本やで見かけたことがあるぞ。

note.com

そこで、私も反解釈の見地から《毒電波》について再定義し、例示していこうと思う。《毒電波》とは極言すれば「半自然なもの・半人工的なもの・誇張されたもの」であろう。《キャンプ》は人工的であるがゆえ「一種のダンディズム」を伴ったが、《毒電波》は対象者の意図の有無を問わず、受け手の密かな悪意の中で醸成され、関係性を構築する。ソンタグの言葉を借りれば、ダンディズムとは無縁の「捻挫した真面目さ」だけがあるといえそうだ。

この毒電波を「半人工的なもの」って言うのはたしかに面白いです。以前『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)』って本に60年代ごろから狐つきがいなくなったって書いてたし。でも時代が変わるだけで前時代のものを「自然」って感じてるだけで、本当はもっと細かなニュアンスの違いがあるのかもしれません。

じゃあキャンプ自体のニュアンスはどうなのか、っていう話はもっといろいろ読み込んでから(読み込めたらw)やってみます。また、ソンタグのキャンプの中で論じていた「ダンディズム」の話もよく分からなかったんだよなあ…。