「大道芸術館に行った後付けの調査」で調べたときに、都築響一さんと成相肇さんが次のようなオタク文化の解釈を紹介していたのを見つけて、森川嘉一郎さんが気になっていました。
都築──そうだったと思います。大阪万博はそういうポジティヴな未来志向が許された最後の万博ですから。
成相──あれこそキッチュのきわみですね。その頃の少年たちが未来志向を抱けなくなったとき、プライヴェートなところに未来志向を投影していったのがオタクになったという分析を森川嘉一郎さんがしています。そう思うと石子の視野転換はすごく正直だった。
その「プライヴェートなところに未来志向を投影していったのがオタク」だという分析が書いてある本、森川嘉一郎さんの『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ 増補版』をようやく読みました。
ただ、元々が2003年に出版されて、文庫版が2007年に出版された本で、今となっては状況が変わっていたり、その後を追加する必要があったり、少しアップデートが必要な箇所もありそうだとも思いました。
オタクとコンピュータの「下方指向性」
こちらの記事から引用します。
すなわち、コンピュータ、ここではパーソナル・コンピュータ(PC)のことだが、それはそもそもの出自からして反体制的・ヒッピー的であり、中央集権的な権力、上位の権威を引きずり下そうとする志向と結びついている。
この点は、たとえば、オーウェルの『1984年』をもじったマッキントッシュ発売時のCMと、それを紹介するジョブズのプレゼンからも明らかだろう。
そして、オタクは、このような「下方志向性」と親和性をもつ「内向的」な人々なのだった。そもそもオタク文化、その中心にあるアニメにしても、著者によれば、「上位」に位置するアメリカ文化たるディズニーに、それが徹底して排除した「性」と「暴力」を再注入し、自らの支配下に置こうとする手塚治虫の志向から生まれたのである。
これはたしかに面白い。アメリカのテック文化の中でもベトナム戦争の泥沼化に伴って新しい技術感が生まれてきて、スタートレックでは主人公の宇宙船が「コンコルドと通底する美しさを湛えて」いたのに、スターウォーズのミレニアム・ファルコンは「煤けた円盤のような宇宙船」「船長が自分の手でカスタマイズした宇宙船」に変わっていたと言います。このことでスティーブ・ウォズニアックが自伝(アップルを創った怪物―もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝)でベトナム戦争にかなりのショックを受けたと書かれていたことを思い出しました。
オタク文化内でも新海誠の「ほしのこえ」やTYPE-MOONの「月姫」など、同人や自主制作のものが目立っていて、オタク文化には「〈アメリカ〉の失墜によって発生したムーブメントから、〈未来〉の喪失がもたらした趣味という、喪失の文化の系譜が、そこに受け継がれてい」て、これらは「下方指向性の技術がオタク趣味によって運用され」た結果生まれたものじゃないかと主張されているようです。
オタク趣味の構造
次に面白かったのが、上位文化のアメリカ文化のディズニーのセル画にエロティシズムを見出した延長にオタク文化があるんじゃないかという点です。ここではじめてのおるすばんという当時話題になったロリコンエロゲのキャラが比較対象に出ています。
「Otaku(おたく) 人格=空=都市 ビエンナーレ・カタログ」という別の本(カタログ)でも利用されているそうで、そちらのブクログには次のようなツッコミが入っています。
なぜ建築展におたく?フィギュアを開封するのも忘れて本体たるカタログを最後まで読んでようやく理解した。まさにタイトル通り、都市(秋葉原)自体がおたくの棲む個人的空間になっているということだろうか。おたくの歴史が非常にわかりやすく述べられている。ただ、テニエル→ディズニー→はじるすのアリス変遷図を見せられると、どうしても真面目に馬鹿をやっているような気がしてならない。いや、こういうの大好きなんだけど。
ここでは萌えアニメキャラを戦後の美人画の系譜に繋げようとすると、一つ無視できない突然変異があると述べられています。
これまでも日本の漫画やアニメの美少女を、平安の平目鉤鼻から江戸の浮世絵の美人がに連ねる美人がの系譜に位置づけるような雰囲気はあった。そしてそれは、ある程度の妥当性を帯びているようにみえる。(中略)ところが、そこから戦後のアニメ絵につなぐには、一つ無視しがたい突然変異とも言うべき変化がある。それは、眼の異様な巨大化である。
その理由がディズニーなどの影響を受けて手塚治虫がもたらしたものなんじゃないかと説明されています。手塚治虫のブラック・ジャックのピノコなどはもちろん、「奇子」なども引き合いに出していてけっこう面白いです。
そしてこれらの特徴が「反動的」だけど「ナショナリスティックな思想や感情を主たる動機にはしていない」と説明されています。
ではこうした白雪姫の凌辱とも言うべき変換が手塚以降も定着し、オタク文化が発生したのは、東(引用注: 東浩紀)が言うように、アメリカ化に対する反動だったのか。ここで問題なのは、その「反動」の内実である。少なくともそれはナショナリスティックな思想や感情を主たる動機にはしていない。そこにあるのはむしろ、客体として外にそびえるアメリカに対する防衛心理から、それを主体に同化させようとする内向的態度である。要は、自分の趣味に染めてしまおうという欲望である。染める客体はアメリカでなくとも、さらに言えば兄弟にそびえ立っていなくても、共有されてさえいれば成立する。これが、オタクの趣味に関わる人の人格的傾向の基調を成している。
これは以前読んだ鶴見俊輔の「太夫才蔵伝: 漫才をつらぬくもの」の「べしみの表情」に近いものを感じます。
海外よりすぐれた文化をもつ人びとが来る。その新しい文化をすみやかに身につけて支配層が語り始める。それは理路整然としているようにきこえ、そのものいいを身につけていない人には、すぐさま言い返しができない。そこでべしみの表情を作る。その沈黙の底の方から、形のくずれた掛声、言いちがえ、その他さまざまの身ぶりがうまれて、太夫の型通りのものいいに対する、すれちがいの劇的展開となる。(中略)支配者のなめらかなことばは、それをあやつれない民衆にとっては、一種の暴力である。これに対する沈黙にかざりをあたえたものが、形のずれた言葉としての万歳芸だった。とすれば、ここには、朝鮮・中国・ヨーロッパ・米国・ソ連などの舶来の教養にそのまま一体化するものではない日本文化の弾力性があらわれていると言えよう。
また、斎藤環さんを引いて「戦闘美少女」についての論考も面白そうです(P91)。ただこれも男性ファンの視点に偏った論考の気がしていて、例えば桃井はるこさんは「戦闘美少女」のモチーフは使うことが多いものの、「つよく・かわいく・かっこよく」って歌詞を歌っていてやっぱり別のニュアンスを出そうとしている気がします。
斎藤が注目した"戦闘美少女"は、この日本のアニメの発展過程の内に発生した、二大モチーフの混成物である。美少女が戦い、しかも決してフェミニスティックな「強い女」にならず、可憐な少女であり続ける。それは美少女とロボットを掛け合わせてできた、極めてフェスティスティックな産物である。実際、彼女らはセーラー服をアレンジしたコスチュームをまとったり、クローン人間であったり、あるいはアンドロイドだったりする。アニメーションが本質的に持っている高度に人工的な性格が、アメリカでは完全主義的で衛生思想的な、日本ではフェティスティックな指向性をもって開拓されていったのである。
気になった点と今後調べてみたいこと
まず「下方指向性」について、テック文化でもテック右派が増えていたり、オタク文化でもオルタナ右翼が目立つようになっていたり、オタク文化の中にも世間への諦めムードみたいなのが増えていたりしている気がします。当時はともかく現代では「オタク文化やテック文化は下方志向性が強い」という主張が成り立つのかはかなり微妙に思ってしまいました。また、当時の新海誠のような才能があっても、もしかするとテックプラットフォームが一人勝ちしてるだけなんじゃないかという気もしてきてしまっています。
また、後に出てくるアダルトゲームなどの話はWindowsというよりPC98などの国産パソコンの時代からあるし、アタリショックの後に(下方指向の視点では逆行して)ちゃんとソフトのクオリティの統制を取った任天堂のファミコンが大成功していたり、アメリカの上位文化との関係はもっと複雑なんじゃないかとは思いました。
私は「伽藍とバザール」を読んで育ったし、「斜め論」という本やスーザン・ソンタグの本とかを読んでいると、(少なくとも表面的には)文化が水平的になりすぎた弊害みたいなのもあるんじゃないかと思ってきています。
また、「戦後の美人画の系譜」の話も、実際は手塚治虫とは別の少女マンガの系譜があって、そちらの画風の影響もあるんじゃないかとも感じます。

