今私は小さな魚だけれど

ちょっぴり非日常な音楽を紹介するブログです

桃井はるこさんの言う「萌えとは第3の性である」について

かわいいだけじゃない電波ソング——モモーイのUNDER17期の歌詞の魅力」で桃井はるこさんについて調べていたところ、次のようなことを話しているのを見ました。

ameblo.jp

英語で、『萌え』を再定義し、解説する本を書かれるんですって。

ちょっと聞いちゃったんだけど、パトリックさんには『萌え』に関して、物悲しいエピソードがあるらしい……シンパシー!
誤解をされたままキモがられるのと、わかってて『キメェwww』って言われるのは全然違うもの。

かなり語ってしまった(^^ )
『萌えとは第3の性である』とか(^^ )

その本はおそらくこれです。

「第3の性」って言っても、トランスジェンダーや人類学の文脈のそれとはニュアンスが違ってそうです。「『萌えソング』って、何だ!?」という記事では次のように語ってるし、

わたしは結局、今までずっと「萌えソング」を作るのが好きです。
わたしが考える「萌え」って何かっていうと…. 『男の子と女の子の想いが重なりあうところ』なんだよね…。
そこには、様式美とか、既存の属性とかはなくてもいいわけ。
ただ、女性ってみんなそうなんだと思うんだけど、
一人の人間でもいろんな面を持ってる。
とくに、好きな人と対峙した時にはそういうものが出てくる。
それは往々にして、ジェラシーによってあぶりだされる。
そういうのをひとつひとつ切り取って磨いてメロディに乗せていくという…。

「ヲタクはかわいい女の子になりたいんだ説」についての再考察の過程」より。

たしかに、アニメやゲーム等のキャラクターの可愛らしい絵の女の子って、
男が、男の都合いいように作った人形かもしれない。
だから、それと自己を同化させたところで性差を超越したことはならないと。
が、それに憧れたり共感する女も一方でいるわけです。

どうやら、Galbraithさんの本の中でも似た話はあるようです。「Do you believe in "male gaze" and most anime pandering the otaku fantasy? 」によるとこんな感じ。

When I was working on Nurse Witch Komugi, I met with the character designer, Watanabe Akio. He also did the characters for the anime series Bakemonogatari (2009). His girl characters are really cute, right? He uses bright colors and designs incredible costumes. I asked him how he drew such cute pictures and he told me, “It’s because I become Komugi-chan.” He doesn’t approach characters objectively, but rather from the inside out. It’s probably similar to when I become a character and perform her voice.

日本語訳はこちら。なんか『弓と禅』みたいなかっこよさがあるなw

ナースウィッチ小麦ちゃん』の仕事をしていたとき、キャラクターデザイナー渡辺明夫に会った。彼はアニメ『化物語』(2009年)のキャラクターデザインも手がけている。彼の女の子キャラは本当に可愛いよね。鮮やかな色使いで、衣装のデザインも見事だ。どうしてそんなに可愛く描けるのか尋ねたら、彼は「小麦ちゃんになるからだよ」と言った。彼はキャラクターに客観的にアプローチするのではなく、内側から――つまり自分がそのキャラになるところから――アプローチしているのだ。

つまり「萌え」は恋愛感情だけでなくて、そのキャラと自分を同一視しようとする感情も含まれているっていう感じみたいです。ちょっと文脈違うものを入れると、ビジュアル系好きなバンギャが、好きなバンドのファッションを真似てたのと近い感じもあるっていうのか。たしかに100%そうじゃないんじゃない気はするものの、男性の多い文化でこのノリは珍しいかもしれません。

ちょうどバトラーのクィア理論の本を読んでいたので、この演じるような視点があるのが「ジェンダーのパフォーマティヴィティ」に近いものを感じました。特に桃井さんは(男女の恋愛関係を主にしてるって点では大きく違いますが)「様式美とか、既存の属性とかはなくてもいい」って言って相対化とか、それに従って現実の複雑さに向かう視点がある気がするので。

でもやっぱり違う部分も目立って、バトラーは「世の中のジェンダーには本物があるわけじゃない」って更に過激なことを言ってる(らしい)です。P68から引用。

言い換えれば、ドラァグはバトラーやニュートンにとって「特殊なジェンダー・パフォーマンス」ではない。ドラァグは、世の中で展開されているジェンダーの「ものまね」である。しかし、ここでバトラーが述べているのは、「本当の」ジェンダーがあり、それに対して、それを模倣した「偽物の」ジェンダーがあるというわけではなく、あらゆるジェンダードラァグと同様に「ものまね」である、ということだ。だから、ドラァグは「コピーのコピー」なのである。つまり、そもそも「ものまね」であるところの「自然に適合しているように見えるジェンダー」を大げさに「真似て」みせるパフォーマンス、それがドラァグである、と。バトラーやニュートンにとってドラァグが興味深いのは、私たちが「自然」と考えているジェンダーが「ものまね」の構造をもつことをまざまざとみせつけるパフォーマンスだからなんだ。

これと似て、萌えは、一方では典型的な女性キャラを再演していて(ジェンダーを再生産し続けていて)、一方では相対化するような感じがあるんじゃないかと。誰かちゃんと分析してみてください!wっていうか、オタク文化に限らなくても一般のポップカルチャー分析でもうありそうな気もしますが…。

モモーイには記号的、アニメ的なパフォーマンスだけど、その結果、現実の複雑な感情を指差すような感覚もある気がします。だから、クィア理論が目指すようなジェンダー解体は志向してないものの、それと似た部分は持ってて、ただ単に典型的な女性像やキャラ像に押し込められてリアルな人間の複雑さを忘れると反発する部分を持ってるんじゃないか、と考えてて思いました。

自分が女性の友人のDJをパクってから影響受けてる部分も大きい(例えば電波ソングのDJといって、KOTOやBPM15Qのような女性アイドルを入れる点)のと、そういう趣向のDJを目指してるからそう見えるだけかもしれないけどw

ひとまず、Galbraithさんの本とかもまだ読んでないので今度挑戦してみます。