ショート動画時代の電波ソングの潮流 その2の続きです。もはやショート動画の話は関係ありませんw
この記事ではショート動画のプラットフォームが電波ソングのあり方にどんな影響があるのか、ネット上のインタビューなどを元にスチュアート・ホールの視点(を元にしたChatGPT)でまとめたものでした。それは、大雑把にまとめると、
- 「高揚感、身体性、耳に残るメロディ、キャラクター性の強い声、オタク/ネット記号の束」が残っている
- ただし動画プラットフォームに適合して「人前ではばかられる」という羞恥の要素が薄まっているんじゃないか
という内容でした。一定納得感があるものだったと思います。
次は次のようなひねくれた内容を聞いてみました。どんなモデルにも例外があって、その例外のほうが面白いというのはけっこうあることだと思うのでw
このブログで捉えられてない最近の電波ソング潮流をリサーチして https://sakana38.hatenablog.com/entry/2026/04/13/085936
すると、次のような5点が指摘されました。4/5がAiobahnさんの話題なのでやっぱりすごい人だなと。
- 「短尺で回る曲」だけでなく、配信者・病み・怪文書・ネット不安のIP美学として伸びている
- これは『NEEDY GIRL OVERDOSE』や『つみみじかん ~狂オシイホド愛シテル~』の話題を拾っていました。病み系流行ってる気がするけど若干言い過ぎなんじゃないかという気もします。
- グローバル化の中身が、観客の国際化ではなく制作そのものの越境化に進んでいる
- これはAiobahn +81さんのEPに多国籍のアーティストが参加しているというもの。たしかにアーティスト側の国籍の越境も、(10年前にもchibi-tech先輩やウサギルさんなどは居たものの)メジャーどころで目立つようになってきました。
- 「短尺化」の反対側で、フィジカル・クラブ・フェスへの再接地も同時に起きている
- こちらもAiobahn +81さんのイベントで「CDの帯を持ってきたら入場無料」という施策のオマージュが行なわれていたことに触れられています。ネットが強くなってきたからこそフィジカルが演出になるって視点はたしかに面白いです。
- 平成・初期ネット・初期ボカロが、単なる懐古ではなく演出資源になっている
- こちらも同上。
- アルゴリズム拡散だけでなく、継承運動・アーカイブ化・現行アイドルへの浸透が進んでいる
- これは小池雅也アニキの生誕祭やクマリデパートへのMOSAIC.WAVの楽曲提供が主な引用元です。
ただ今回は「継承運動・アーカイブ化」についてです。
継承運動で抜け落ちやすいもの
ここ最近、電波ソングの正典が生まれてきているように思います。2010年代のファンは同人音楽やアニソンの「萌え萌えした曲」や東方アレンジを雰囲気で電波ソングと呼んでしまっていました。それに比べたら現代のファンのほうが圧倒的に電波ソングに詳しいと思います。ゆんゆん電波シンドロームの収録曲がその雰囲気を伝えていると思います。
ただやっぱり歴史の必然として、名のあるアーティストが残っていて、現代で活動停止しているアーティストや、そもそも無名な方が作った曲はあまり話題に残らないと思います。例えばアーティストとしてはみらゐさんやunMOMENTなど解散したグループ、亡くなった方など。そもそもエロゲには無名なアーティストがたくさんいたし、muzieで生まれた多くの名曲たち、VIPで突然生まれた「メスガキのポルチオ」という曲は我々が語り継がなくては後世に残りません。もっとあの、電波ソングの歴史は有名無名かかわらずたくさんの人の遺産の上に成り立っていることを忘れたくはありません。
こういう正典化の話を、Aleida Assmannや、それを音楽ジャンルに展開したTimothy J. Dowdが議論しているようなのですがさすがに私には手がかりが無さすぎる…。
次に Assmann+Dowd です。Assmann は canon を「いまも能動的に回される記憶」、archive を「保存されているが常時は流通していない記憶」と分けます。しかも両者の境界は固定ではなく、アーカイブから再発見されたものがカノンに上がることもある。Dowd はこれを音楽ジャンル論に接続して、genre / heritage / canon の分類と境界づけが、共同体のcollective memoryを作ると述べます。なので「アーカイブ化」は単なる保存ではなく、何をそのジャンルの遺産として数えるか、何を代表曲として前面に出すかという選別の運動として読めます。*1
ただ、少なくともChatGPTに解説させた範囲では、「わかりやすい代表者」に圧縮されやすい、クレジットが弱い曲ではアーティスト中心の歴史から外れやすい、実際はジャンルを作っていたものが落ちやすいなどはありそうです。
正典化の副作用は、単に「有名どころばかり語られる」という話ではありません。Assmann の整理だと、正典はもともと能動的に回される小さな記憶で、そこには人数も作品数もあまり入らない。だから歴史を書き始めると、UNDER17、KOTOKO、MOSAIC.WAVのような「後から見て分かりやすい代表者」に圧縮されやすい。一方で、あなたが以前から拾っている unMOMENT や、初期史で重要な長崎みなみのような存在は、補注や前史へ押しやられやすい。これは偶然の漏れではなく、正典化そのものの癖です。*2
しかも厄介なのは、正典化が作品の歴史を人名の歴史へ変えてしまうことです。Mittell はジャンルを、作品内部の本質ではなく、産業・観客・文化実践の中で動く文化的カテゴリーとして捉えています。Foucault の author function でも、社会の中で「作者を持つ言説」と「作者を持たないまま流通する言説」は分けられる。これを電波ソングに当てると、ゲーム主題歌、キャラソン、ユニット名義、イベント曲、ブランドや作品に紐づいた曲、さらにクレジットが弱い曲や実質的に無名の曲は、アーティスト中心の歴史では中心から外れやすい。つまり「アーティストで語る」こと自体が、何を本体と見なすかを変えてしまいます。*3
そこに批評の副作用も重なります。Schmutz が整理しているように、批評や分類は単なる整理ではなく、何が正統で何が価値あるかを示す働きを持ちます。だから、強い名前を軸に語ることは記述であると同時に序列化でもある。その結果、エロゲ文脈、局地的ヒット、失敗作、恥ずかしさ、雑な流通、MAD的受容、現場のコールや身体実践のような、実際にはジャンルを作っていたものが落ちやすい。正典化はジャンルを見やすくする一方で、ジャンルの汚さや散らばり方を削ります。*4
Assmannの本とか
日本語でアーカイブの本などが出ているそうです。
アライダ・アスマン『想起の空間[新装版]』
正典化とアーカイヴ化を考える土台になります。記憶・歴史・忘却・想起に加えて、目次に「機能的記憶と蓄積的記憶」「アーカイヴ」の章があり、「なぜ代表者だけが残るのか」を考えるのに向いています。
https://www.reddit.com/r/sociology/comments/jztj12/sociology_and_music_any_advice_on_theoretical/
アン・ツヴェッコヴィッチ『感情のアーカイヴ』
断片的で、私的で、病理化されて見えなくされやすい感情や実践をどう拾うか、という本です。あなたが言っていた「アーティスト名が残らないもの」「現場の空気や羞恥や噂をどう残すか」にいちばん近いです。
*1:出典: Memory, History, and Identity in Modern Europe, CONSIDERATIONS ON CULTURAL MEMORY AND ITS INSTITUTIONALIZATION PROCESS, Doing Music Together: Classifications of Genre, Heritage, and Canon, Doing Music Together: Classifications of Genre, Heritage, and Canon
*2:出典: Assmann Canon and Archive
*3:出典: A Cultural Approach to Television Genre Theory, What Is an Author?
*4:出典: The Classification and Consecration of Popular Music, Assmann Canon and Archive


