今私は小さな魚だけれど

ちょっぴり非日常な音楽を紹介するブログです

【本】『繁栄からこぼれ落ちたもうひとつのアメリカ』『キャラ化する/される子どもたち』『クジラを食べていたころ』を読みました

繁栄からこぼれ落ちたもうひとつのアメリ

メルカリに出品しました

最近英語圏(特にアメリカ)の文化が気になっていて、とりあえず「アメリカ」ってタイトルに入った本はいっぱい読んでます。偶然ブックオフで見かけて面白そうだったので読みました。

いろいろなブログや感想にもある通り、アメリカの貧困について取材した本です。ネタバレになりますが、最後の「再生と、新しい未来への旅」が面白く感じました。

一方、本書に登場する人の一部は、人生を立て直そうとしている。そして、彼らは問いかけてくる。私たちは本当に、誰もがうらやむような五六〇平米もの家が必要なのだろうか。価格はべらぼうに高く、暖房と冷房費は過剰にかかり、資産税はつり上がるばかりで、掃除や維持にも時間がかかる。たとえば一八〇平米にして、残りの三八〇平米は食べ物を育てるのに使ったらどうだろう。

都市や郊外で自給自足生活を実現することの価値は、ニンジンやホウレンソウの重さだけでははかれない。自分の食べ物を自分の手で作り、庭でニワトリを飼って卵を産ませることは、節約になるだけでなく、心理的な報酬を得ることができる。自分たちには生きる力がある、と感じることができる。そして、近所の人たちと物を交換するとき、コミュニティが生まれる。土いじりをすると人生の見えなかった部分がよく見えるようになる。

一九〇〇年代はじめのフェミニストアナーキストだったエマ・ゴールドマンの有名な言葉に、「私が踊れないのなら、そんな革命の一部になどなりたくない」というものがある。私にとって、革命はニンジンやトマトを育てることだ。「踊れないのなら」というところを「土いじりができないのなら」という言葉に換えたい。

それは保守的なイデオロギーに聞こえるかもしれないし、たしかにそのとおりだろう。私たち一人一人は自覚を持って身の丈に合った生活をしなければいけない。懸命に働いて、昔ながらの倹約をする。だがそれは、政府が国民を助けて、雇用を創出して、経済を立て直す手助けをするという考えと組み合わされなければならない。そして、労働者はその産物を報酬として受け取る。それはリベラル的なイデオロギーだ。

この本の中で度々取り上げられていた『怒りの葡萄』も、気が向いたら読んでみます。

キャラ化する/される子どもたち

メルカリに出品しました

話題になっていたこちらのブログで知りました。引用部分は私も感じることがあります。

また「キャラ化」(記号化)していくタレント像についても追い追い言及したい。こういうと土井隆義氏の『キャラ化する/される子どもたち』を思い出す人もいるかもしれない。それとは少し違う気もするが、本人の複雑な人格よりも、キャッチーでわかりやすい拠りどころ、「この人ならこれ」「この人はこう言うだろう」といったふうに本人の思考や発言、ふるまいが固定化されていく現象をわたしは「キャラ化」と呼んでいる。これは長短が表裏一体だ。長所はタレント的な「使いどころ」や「売り出し方」が理解しやすい点、受け手側に覚えてもらいやすい点などだ。キャラ作りはタレントにとってよくあることであろう。しかし、それによってタレント本人の人格や思想が抑圧されてはいないか?

これに加えて、若者の「宿命主義」という話は面白く感じました。「「新しい宿命主義」と「圏外化」にどう立ち向かうか?」というブログを引用します。

一方、「新しい宿命主義」というのは、たとえば学習の習慣や学歴の獲得などをめぐって、「がんばれば必ず成功する」という子ども・若者と、「何をやっても無駄だ」と思う子ども・若者との間で、「意欲の二極化」という傾向が見られる状況が生まれていること、そのことを前提にしています。その「意欲の二極化」傾向のなかで、「何をやっても無駄だ」と思う子ども・若者の間から、「自分たちの将来は、生まれもった素質などによって宿命づけられ、決まっている」かのように思う傾向が芽生えているのではないか。このブックレットの著者は、このような傾向を「新しい宿命主義」と呼んでいます。

クジラを食べていたころ

メルカリに出品しました

たしか黒田龍之助さんの本のどれかで触れられていた本です。「聞き書き」というフィールドワークの手法を使って書かれたそうです。飲み会で先輩からおもしろトークを引き出すのに使えるかも。

「今は豊かだけど昔は〜」みたいな感想が多かったのでちょっと可笑しかったですw ただ、日本自体もこれから(相対的に)貧しくなっていく可能性も高いと思うので、もしかしたらもっとリアリティを持って過去の食生活文化も「役に立つ」かもしれません。